私が大学院をやめる経緯①

2019年4月に母校の医学系研究科の大学院に入学した皮膚科医のちびです。

博士論文を書いて博士号を取得して、さらに一人前になろうと思ったのですが、

やっぱり家庭との両立は難しく、断念しました。

その経緯を数回にわたって書き留めておきます。

まずは、大学院入学~1回目の休学まで。

独身時代に大学院への進学を決めた私。

その後、夫との出会い、結婚があり、大学院入学直前の3月末に第1子妊娠が発覚。

子育てしながら働いている人しか見たことのなかった私は、

当たり前に復帰できると思っていました。

甘かった。

入学後の4月5月

皮膚科から出向した先の研究室にて。

新人の私は、教育係のテクニシャンの方に謙虚に教えてもらうべき時期。

つわりがきつくて、ほぼ研究室に行けず。

「妊娠は病気じゃない」と教授に言われた。

言い返す元気もなかった。

(今なら言える「病気じゃないからこそ、つわりを良くする薬がなくて困る」と。)

同期から完全に置いてけぼり。

5月末に復活したけど、

もう完全に後れを取って、聞きたいことを聞けず。

研究室の細かいルールや院生のdutyも分からず。

やるべき予備実験を何もわからないままに繰り返す日々。

慣れないMACのパソコン。

英語での毎週のプログレス報告。

産休に入る、10月、心底ほっとした。

教授には、翌年4月から復帰するつもりだと伝えた。

無事に第1子出産。

慣れない育児、それでも幸せ。

育休制度もない大学院生、貯金が徐々に減っていく。

蓄えはあるが、目減りする貯金額に耐えかねた私は、

医局長・バイト係の先生に、産後2ヶ月すぎたらバイト復帰したいと連絡。

OKもらえて、週に何度かバイト復帰。

ほどなくして、出向先の教授からメール。

「バイト復帰しているんだったら研究室にも来るように。」

「学生の本分は研究です。」

とのこと。

今なら言える、

「保育園は4月からなので慣らし保育が終わってから研究室には復帰します」と。

でもその時は言えなかった。

「分かりました。1日当たり短時間になりますが、〇日から行きます。」

と、売られた喧嘩を買ってしまった。

近くに住む私の両親に手伝ってもらいながら、私は研究室に復帰した。

大学院1年目の2月末のことだった。

復帰して数日、疲れがたまったのか38℃の高熱が数日続く。

当時は未知のウイルス、コロナウイルスが中国の武漢で流行っていて、

日本でも感染者が出ててんやわんやしていた時期。

熱が出ても、近くの開業医はみてくれなかった時期。

まだ寝返りもできない幼子を抱えて、耐えるしかなかった。

数日後、ようやく研究室に復帰したところ、

かけられた言葉は、

「コロナだったの?」

と、事細かに症状を聞かれて「研究用の血が欲しい」的なことも言われた。

「インフルエンザだと思うので・・・」とお断り。

徐々に研究室にはコンスタントに行けるようになって、

マウスの遺伝子型のタイピングなどをしていた時期。

大学院2年生になった4月

第1子の慣らし保育がようやく始まった時期。

夫の単身赴任が始まった時期。

私と第1子の二人暮らしが始まった時期。

ちょうど、コロナで全国一斉に休校・休園になった。

第1子の預け先がなく研究室も4月いっぱいは休むことに。

5月GW明け、保育園も「どうしてもという家庭だけ預かります」という時期。

第1子を預けて私はまた研究室に復帰した。

そこからは、お迎えの時間を気にして電車に乗り遅れないように研究室から走る毎日。

8月に入って猛暑。

心身ともに限界になった。

とにかく焦っていた。

保育園の送り迎えだけで体力消耗する。

さらに研究、毎週の英語でのプログレス報告、たまに回ってくる抄読会(英語)。

・試薬のたくさん入ったチューブを床にぶちまけてしまった。

・遠心分離機にうまくセットできないままスタートさせてしまった。

ものすごい音と振動がした。

どうしてよいか分からず、呆然と立っているしかできなかった。

(その場にいた別の先生が電源OFFしてくれて、同期が中を掃除してくれた)

・キャンパス内で使わせてもらっていた電動自転車が壊れた。

・なにもかも順序が分からなくなっていた。

・涙が止まらない。

キャンパス内の保健センターに電話した。

〇日なら相談の時間を設けられると言われ、その日まで頑張った。

相談できる日、結局解決策はなかった。

もう無理。

消えてしまいたい。

でも子どものために、消えるわけにはいかない。

休みたい。

とにかく休みたい。

医局長にメールした。

すぐに折り返しの電話がかかってきた。

泣きながら状況を説明。

いろいろくみ取ってくれた医局長は、

「なるべくはやくこちらの教授と話をするように。」

「こちらから教授にはだいたいのことは伝えておく。」

とのこと。

そこからはあまり記憶にない。

「いったん休んだ方がいい」

と、皮膚科の教授に言われた。

その通りだと思って従った。

状況が良くなっても、もうあの研究室には戻らない。

研究室からすべての私物を引き上げて、

大学院2年生の9月なかばから休んだ。

休学扱いすることすら忘れて。

続く。

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